今から約760年前、一人の僧と若い博多商人、満田弥三右衛門が宋へ旅立ち、織物の技法を習得、帰国して代々受け継がれたのが始まりです。さらにその250年後、弥三右衛門の子孫、彦三郎が再び明へと渡り、織物の技法を研究。帰国後は工法の改良を重ね、琥珀織のように生地が厚く、浮線紋や柳条などの模様の浮でた厚地の織物を作り出したのです。そしてその織物が作られたこの土地、博多の地名から「覇家台織はかたおり」と名づけられたと伝えられています。
19世紀初めに、一切れの木綿の古い布のかすれた糸をヒントに、12歳の少女によって始められました。その後、現在の福岡県南西部にあたる久留米藩が産業として奨励したことに加えて、絵絣技法や、小絣技法といった改良工夫によって、久留米絣は、大柄小柄絣、そして絵絣等、他に類のない特徴的な技術を持った木綿絣産地として発達してきました。
久留米絣組合連合会(久留米絣)
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